|
ウォータータウン()は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州の中央部、ミドルセックス郡の南東部に位置する都市である。ボストン都市圏に属している。2010年の国勢調査では人口31,915 人だった。市の形態の政府を申請し認証されながら、その公式名には「町」を残すことを望んだ、マサチューセッツ州内14自治体の1つである〔http://www.sec.state.ma.us/cis/cisctlist/ctlistalph.htm〕。 ウォータータウンにはマサチューセッツ湾交通局がバス定期便を走らせている。ケンブリッジ市やボストン市に近いこと、多様な既存住宅があること、公立学校の評判が良く、安全で静かな地区があることによって、子供を持つ家庭にとって望ましい町になっている。 市内には、ベミス、ブリガム、クーリッジスクエア、イーストウォータータウン、ウォータータウンスクエア、ウェストエンドと呼ばれる6つの地区がある。 == 歴史 == 考古学に拠る証拠で、ウォータータウンとなった地域には、イングランドから開拓者が到着する以前数千年前から人類が住んでいた。マサチューセッツ族のペコセット族とノナンタム族という2つの部族が、後にチャールズ川と呼ばれる川の両岸に開拓地を持っていた〔City of Watertown official website, "History and Tourism" 〕。ペコセット族は現在ウォータータウン・ダムがある場所で、ニシンを獲る梁を作っていた。エールワイフやブルーバックニシンが生まれた場所である清水に卵を産むために海から上流に戻って来る毎年の回遊は、現在でも毎春見られる。 ウォータータウンは最初にソルトンストール・プランテーションと呼ばれており、マサチューセッツ湾の初期開拓地の一つだった。1630年、リチャード・ソルトンストール卿とジョージ・フィリップス牧師が率いた開拓者集団が入植を始め、同年には公式に法人化された。初期の文書には"Waterton"(ウォータートン)という綴りも見られる〔Young, Alexander (1846). ''Chronicles of the First Planters of the Colony of Massachusetts Bay, 1623-1636'', pp. 313-14. Boston: Charles C. Little and James Brown.〕。 初期の建物群はケンブリッジ市のゲリーの上陸点と呼ばれる地域内に造られた。最初の4分の1世紀で、ボストンに次いで人口と面積が多かった。その時から面積は大きく減少してきた。ケンブリッジに3度領域が渡され、1712年のウェストン、1838年のウォルサム、1754年のリンカーン、1859年のベルモント各町の創設に貢献した。1632年、ウォータータウン住人は、ケンブリッジに柵で囲んだ砦を建てるために税金を集められることに抗議した。これはアメリカで「代表なくして課税」されることに対する最初の抗議であり、植民地で代表制政府を設立することに繋がった。17世紀末には既にウォータータウンはニューイングランドにおける馬と牛の主要な市場となっており、肥沃な庭園や優れた荘園で知られた。1632年頃、植民地で初の製粉所が建てられ、1662年にはアメリカで最初期の毛織物工場が建設された。 マサチューセッツ植民地議会はコンコードで休会になった後に、1775年4月から7月まで第一教区教会で開催され、その場所には記念碑が置かれている。マサチューセッツ総合裁判所は1775年から1778年までここでその会期を持った。近くのエドマンド・ファウル家屋で委員会が開催された。ボストン包囲戦の間、ボストンのタウンミーティングもここで開催され、ボストンの多くの家族がこの地区にその家を持った。アメリカ独立戦争初期の数か月間、安全委員会と通信委員会がウォータータウンを本部とし、ジョセフ・ウォーレン将軍がバンカーヒルの戦いに出発したのもここだった〔Hodges, Maud deLeigh. 1980. Crossroads on the Charles. Phoenix Publishing, Canaan, NH〕。 1832年から1834年、セオドア・パーカーがここで私立学区を運営し、その名前が現在のパーカー学校に残っているが、建物はもはは公立学校として運営されていない。 1816年から1995年、ウォータータウン武器庫が軍隊の軍需工場と研究施設として連続的に運営されていた。1995年、当時陸軍物質技術研究所と呼ばれていた施設を、陸軍はウォータータウンに売却した。この武器庫は、科学的管理法の開拓者であるフレデリック・テイラーの管理法が引き金になったストライキを行った場所として有名である。テイラーの方法は「科学的管理法」と呼ばれ、作業を細かい部品に分割した。労働者が全体を完成させることはなく、その代わりに細かい仕事を繰り返し行うのを、ストップウオッチを使って時間を測られ、労働者から最大の成果を得られるような作業のバランスを見つけようとした。このストライキとその原因は、1911年に連邦議会で聴聞されることになった後ですら、議論を呼んだ。連邦議会は1915年に政府の所有する武器庫でこの方法を行うことを禁じる法を成立させた。テイラーの方法は広く普及しヘンリー・フォードのような工業資本家に影響を与え、その概念は組み立てライン生産法の基本的なヒントの1つになった。ウォータータウン武器庫の跡地は1990年代にスーパーファンド浄化の大きな対象となり、現在では幾つかのレストランや劇場が開かれ、ショッピング、食事および芸術の中心となって来た。この場所には2005年にオープンした地域芸術会館であるアーセナル・センター・フォー・ジ・アーツがある。武器庫は現在アセナヘルスが所有している。アーセナル通りには、ウォータータウン・モールとアーセナル・プロジェクト・オブ・ウォータータウンという、通りを挟んで2つのショッピングモールがある。 1829年に設立されたパーキンス盲学校は、1912年からウォータータウンにある。 スタンレー兄弟が1897年ンに蒸気駆動の車を初めて作り、スタンレー・スチーマーと呼ばれるようになった。 1988年、ウォータータウンスクエアがアルメニア図書館とアメリカ博物館の新しい場所となり、北アメリカで最大のアルメニア工芸品の収集を収めていると言われる。 2013年4月18日から19日にかけての深夜12時を過ぎた直後、ボストンマラソン爆弾テロ事件の容疑者2人が、ウォータータウンで警官との銃撃戦となり、武器や爆発物を使うことになった。容疑者の1人が重傷を負い、後に死亡を宣告された。警察、FBI、州軍が町を数時間封鎖して、残った容疑者の捜索にあたり、翌日夕方に封鎖が終わった直後に負傷しているが生きている容疑者を逮捕した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウォータータウン (マサチューセッツ州)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|